Jun 4, 2012

Ms.Grammar

岡村ちゃんすごい、charaすごい、この期に及んでマヨサイを作った(2000年くらいのリリースだがわたしの中でマヨサイの位置づけは近代史。聖書などは歴史上の名作)、call meが生まれたなんて枯れないにもほどがある。2つとも誰々プロデュースみたいな、外部の血を入れないで完全に本人が作ってる(信じられなくて調べた)!
そして、この人たち(並列してすみません、程度はともかくわたしの中で大きなカテゴリ的に一緒なもので…「フィッシュマンズ」と「それ以外」という)どっぷり浸るとあっという間に食傷気味になってしまう。
フィッシュマンズにそれがないのは、感情や大事な部分の表現を歌詞や声にできるだけ込めないで、ベースとか、ドラムとか、鐘やバイオリンとか、音と響きという無機物なところに込めるからだ。だから深く感情に訴えてくるのに(リラックス系のBGM前提の音楽とは質が異なる)、全然つかれない。
友達が、(フィッシュマンズは)いくらボリュームを上げてもうるさくない と不思議がっていて、そうそうと思ったが理由がわかんなかったが、そういうことだ。有機物が感情的だとそのうち疲れるが、楽器やエフェクトだと美しい。で、わたしは後者が好みなんだきっと。

ところで、日本語を英語っぽく歌うミュージシャンは多々あれど、岡村ちゃんは、ガチで"tr"
の発音をする。そして、"決心"が、"けっしne"(または、けっしnne)と聞こえるw

人に英語教えたり、英語教える人たちに囲まれていると、あたまでわかってても、(じぶん意外と英語できるのでは…)という勘違いに陥ってしまいそうになり、驚く。レベルが8のところからレベルが3のところを見てるのだからわかって当然なのだ。完全に錯覚だ。環境って恐ろしい。で、わたしはさすがにずっとやってるし教えられるレベルにはあるけれど英語なんか全然できないししゃべれないから、それを忘れてしまいそうになったときは、星野先生っていう先生を思い出して、気を引き締めてる。
星野先生は、英語が公用語のシンポジウムで司会をやってて、英語母語話者からの質問や説明を、理解するだけではなく要約したり、さらに内容を深めて参加者に投げ返したりしていた。
英語を英語で要約ってその時点でかなり高度なんだよ。しかも、その場で話がどんな方向へすすむかもわからない状況でさ。これ日本語でも難しいでしょう。しかも、内容は学問的なこと。英語が話せないお年を召した人の日本語をらしい長々しい話もスッキリと一瞬で完璧にまとめて英語にしていた。
そのとき、内容もよかったが先生の能力に愕然として、日本にこんな人がいるんだと嬉しい反面、わたしは一生かかってもこうなることはないだろう、と絶望した。あと、そんな先生を目の前にして、それが当たりまえみたいな顔してる(ように見える)人々にも驚いた。単に(人の英語力に)興味がないから反応もしないのか、このレベルの日本人は彼らの周りにザラにいて慣れてるから別にどうも思わないのか、後者だったらわたしはとんでもないとこにいる、場違いもいいところだ(学生だからそういうとこに身を置くのは当然だが)
英語ができる人ってああいう人のこと。
勘違いしないように、絶対に傲慢にならないように、ずっと忘れないように、太ももに「星野先生」って刺青しようかな。
あと、辛いときに毎朝、神様(
ルソーとガンジーとキング牧師)にお祈りして「非暴力」「平和的解決」という信念が揺らぎそうなときの心の支えにした。この人たちのタトゥーも入れたい。まったく未熟ですぐにグラつくのだ。物事の二面性に目を向けるうち、間違ってるほうにまで理由づけして納得しようとする悪い癖がある。「先生方、きょうもわたしをお守りください!」「ただしい方へ導いてください」(お祈りは日本語なのだw)
絶対的に正しい人(や考え)の存在ってたのもしい。もうとっくにしんでても。心の拠り所。わたし宗教ないけど、宗教ってこういう感じなのかなぁ。

英語なんかできなくても世界にでれるし、友達もできる、分かり合える。市民性の高い(与えられた情報からいつでも自分で適切な判断ができる)、多様性に対しての寛容さのある大人になってさえいればいい。結局はそこだ。それではじめてほんとうに人から信頼されるし社会で本当の関係が築ける。(自分のことは棚にあげる。名選手が名監督になるとは限らないのだ)
って思って英語教えることに葛藤があったけど(世の中もっと子どもが知るべき大事なことがある)(これ、Bad Teacherでキャメ子も言ってたw)、結局それしかできない(わたしのやりたいことは教科になってない)から、やってて、 やってるとやっぱり好きだから楽しくて、窓から入る初夏の風に吹かれながら文構造の説明なんかしてるとふと頭の芯がふわーっとなって多幸感があって、説明しながら「わたしはこういうこと(シンプルな英語の文法)が好きで好きでしょうがない、あー今心から楽しい。あなたたち、いま聞いてて楽しい?」と言ってみんなに苦笑しつつ首振られたりしてるんだけど(英語好きな人はほとんどいない)、英語のわたしの先生は江川泰一郎先生(もちろん直接師事してませんけど。ソウルの先生です。あ、でも先生のお弟子さんには教わったな)で、あの黄色い文法書はいつも手元に置いてお守りにしている。
江川先生のタトゥーもしたいな、やっぱ、安室ちゃんみたいにバーコード(なんかバーコードみたいの入ってるよね?腕に)いれて、ピッってやるとあの黄色い本がでてくるようにする感じか。それかISBNコードを入れるとか。

あ、文法書で思い出した!この間紀伊国屋で、こどもようにシンプルな参考書をみてたら、昔喉から手が出るほど欲しくて欲しくて、でも絶版で、必死に探して手に入れた、超大事にしてるクァークの文法書が、再発されてて、帯に「今世紀最高の文法書」って書いてあった。
•••知ってたよ!! なんで今まで絶版だったのか不思議だわ。でもこれで人にすすめられるから嬉しい!
これと江川先生の本があれば、載ってないことはありません。
あの、人が軽々と持てる小さい(もちろん、本にしてはでかいが)体積の中に宇宙が入ってるのだ。うーん、ロマン。
辞書を作る人は早死にするといわれる。あの作業は大変すぎて命を縮めるのだ。文法書もそうだとおもう。先人が削った命をほんのちょっとのお金で手に入れてありがたくその恩恵に預かるお気楽な現代人のわたしだ。

文法を軽視するような風潮の時期が政府レベルでありましたよね(専門は英語教育ではないので詳しく知らないけど)
あれに反対で「日本人が日常であんまり英語を使わないにもかかわらず(本人が希望すれば一生、ゆりかごから墓場まで日本語だけで生きていける、それが実現しやすい稀な環境が日本にある)きれいな英語を話すのは義務教育でキッチリ文法をやってるから」「文法を笑うやつは文法に泣く」ってことを熱く語り続けている。(1番聞いてほしい人たちにはほとんど聞いてもらえないがw)
文法は地盤と基礎工事なのだ。地盤が固くてしっかり基礎工事ができてるとこに家を建てたら、あとから増築し放題。土台が弱ければ、何度も家を建てなおすハメになる。現実の基礎工事と違って、文法は、家を建てたあとからでもいくらでも地盤改良ができるというのが救いだ。

あー、最近ブログ長いね。
ほんとに修論が鬱で…
こんな孤独なもんだと思わなかった。みんなで教室で勉強してるのってなんて楽で楽しかったんだろう。誰ともわかりあえない孤独な作業だよ。
なんで、修士にきて、博士に行きたくないって人がいるんだろうって疑問だったけど、わかった(笑)
こんな孤独で重いこと他にあまりない(笑)


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