Jun 16, 2011

Human rights

私は北関東の出身で、いわゆる被差別部落の人と接したことが一度もない。同和問題について小学校でちょこっと習ったことは習ったが、肌で実感できないため、子どもたちはただ、「得たいのしれない恐ろしいこと」みたいな感じで、「もしかして(知らされていないだけで)自分もそうなのではないか」とか、子ども同士でひそひそ話していた。また、私は「そんな差別なんかまったく起こってもいないのに、わざわざここでそんな授業やるということは、歴史的にこの○○小のあたりがそういう地域なのでは?」などと勘繰っていた。
こういったことがあるから、「寝た子を起こすな理論」が出てくるのも無理はない。先日も、同和問題に取り組んでいる福岡の先生が講義しにきてくれて聞いた話では、今の大学生にアンケートをとって聞いてみると、ほとんど「小学校時代の同和問題教育は意味がなかった」と答えるという。

もちろん、北関東に差別がなかったわけではなく、私の故郷の隣町は、大企業の工場が多くあり、日本でも有数の外国人集住地域でだったため、学校では「夜道を一人で出歩くとガイジンに襲われる」的なうわさがまことしやかに流れていたし、その地域でバイトしようと思って面接にいったら、そこの会社の社長や社員(つまり、いい大人)からも同じ話を聞いた。

このような次第で、同和問題に関心を持たないまま、大人になった。数年前に、今いる大学の国際教育の先生が集まってるセンターのイベントに行くようになって、そこに来ていた大阪の高校教員が部落問題の話をしていて、その生徒に「差別されたことのない先生には自分の気持ちはわからない」と拒絶されるという話をしていた。たしかにその通り(気持ちを完全に理解することは不可能)かもしれないが希望を捨ててはいけない…みたいな話。

差別をされると、生きる希望がなくなる。希望を失うと、人は往々にして、反社会的な行動に走る。この生徒もそうだったし、留学先の高校には先住民の生徒が少数いたが彼らもそうだった(それでも、「高等学校」に来てるってことだけでもすごいこと)。(先住民は「差別」とちょっと違うかもしれないけど、まあマイノリティという大きいくくりで…)
誰でも、どんな人でも、人が人の生きる希望を奪ってはいけない。
しかし、残念なことに、人はほっておくと差別をするものらしい。デフォルトでそういうものなのだ。
また別の授業だが、Dehumanizationに関する論文についてやったのだけど(Dehumanization and Education/Daniel Pekarsky 1982)、人間が2人いると、そこにもう権力の構造が生まれちゃうのだって。いじめや差別をなくすにはどうしたらいいかという、対処療法はたくさんでているけど、その根本にある哲学を論じたものはあまりないので、その先生はその論文を座右の論文にしているようだ。
「人は、差別をするもの」という前提にたつという視点は新しいが、でも、有名なドキュメンタリー(国際教育をやる人はみんな見るといわれる)「青い目茶色い目」だって、仲良しのかわいい子どもたちが、ある日突然、人為的に「差別のスイッチ」を入れてやると、ほんの数分で悪魔のように豹変してしまうという話ですよね。「ガイジンにレイプされる」という都市伝説(本当だったのかもしれませんが、暴行事件は日本人だって起こすわけだし)も、戦後の「朝鮮人が井戸に毒を入れた!」とまったく同じことで、世の中が変わっても、経済がよくなっても、人々の教育レベルが上がっても、そうなるですよね。なぜならやっぱりさきほどの論文のとおり、「人はそういうもんだから」ということになる。



そうなると、やはり学校で同和問題をやるのは正しいこと(寝た子を起こすな理論は通用しない)ではないだろうか、ただし、やり方を変えて。
知らないことはやっぱりいけない。
朝鮮人が井戸に毒を入れたというのも、事実そうだったかは疑わしく、そういった噂を流して朝鮮人をみんな木にくくりつけて撲殺したのは、日頃、朝鮮人をdehumanizeしていた自覚があったから、戦争のゴタゴタの中で、ここぞとばかりに彼らが仕返ししてくるかもしれないと勝手に思い込んだから、その恐怖心からだといいます。やられるまえにやってしまおうと。

また、90年代の入管法改正で、ふつうは何か特殊な「資格」(在留資格)がないと日本に外国人は住めないのだけど、日系人だったら単純労働しにきていいよ~となり、日系ブラジル人などが多数、渡日しましたよね。これは労働者が足りない日本の苦肉の策だったわけで、経済界が暗躍(?!)してのことだったので、外国人=労働者 であり、労働者が入って日本がどうなるか、生活レベルのことは考えていなかったのだそうです。
そして有名な言葉(日本のことを言ったのではないけど)「我々は、『労働力』を呼んだつもりだったが、やってきたのは『人間』だった」 ということになるわけです。摩擦も起きます。
ある日を境に、見た目の異質性が高い外国人が町に増える。彼らとは言葉も通じない。彼らのことを知らない。知らないことは怖い。こういった無知が偏見を呼び、先のうわさみたいなことにつながる。さすがに世の中も変わって撲殺はしませんが、こういった噂もdehumanizationであることには変わりありません。

で、(あ~~~とまらない!)じゃあ朝鮮人かわいそうだったね!日本人ひどい!日系ブラジル人かわいそう!日本人悪魔!って話では全然ない。「人は2人いるといじめをする」っていう論文のとおり、逆もありえる。
それも授業でこの前やったのだけど、パレスチナのサッカーの話で、ちょっと、私サッカーもパレスチナ問題知らないのでうまく説明できないけど、選手の構成がアラブ系のチームがあって(このチーム以外はほぼユダヤ系。サポーターも。)、これが、試合になると、まぁ~ひどい、目を覆いたくなるブーイングにあうわけ。まさに人種差別!!って感じで、大人も子どももまあひどい言葉を口にして、こんな環境で育つこどもが気の毒、末恐ろしいわぁ… って感じなんですけど、注目すべきは、そのようにdehumanizeしている側が、ユダヤ系だってことなんですよ。
ユダヤ人っていったら、ねえ…。みなさんご存知のとおり、世界でもかなりひどいdehumanizationされた人たちじゃないですか、ねえ。
このように、立場は状況によって変わる、だれもが、dehumanize側になりえるっていう恐怖を感じる動画でした。(YoutubeとNHKのサイトで調べたけど、見つからなかった。アラブ系サッカーチームの名前が「サフニン」で、NHKで、今話題の山本太郎がナレーションだった。検索してみてください)

今日はここまで。久々にブログに長文書いて疲れた。
はい、例によって、課題に追われています!!!(逃避中です)

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